フロントライン : 映画評論・批評
2025年6月10日更新
2025年6月13日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
未知の災いの最前線に立つ感覚を活写。実話映画化の早さも画期的
2020年2月、豪華客船ダイヤモンド・プリンセス(DP)号での集団感染。日本で初めての新型コロナウイルス集団感染発生として当時連日のように報道されたが、すでに遠い出来事のように記憶があいまいになっていたのは、やはりその後のコロナ禍によって激変した数年の体験が強烈すぎたからか。いわば一昔前の疎遠な他人事を、いま目の前で起きている自分事のように体感させてくれるのが本作「フロントライン」だ。
実話に基づく劇映画を、事象の発生からわずか5年余りで公開までこぎつけたことも、邦画界では異例の快挙と言える。従来、言論と報道の自由が確立していた米国の映画界は実際の事故や事件を短期間で劇映画化するのが得意な一方、政治家や役人や大企業に忖度しがちな日本では往々にして、事故や事件が重大であればあるほど各方面への配慮や調整で長い年月を費やしたり、そもそも関係者の了解や必要な資金が得られず企画が頓挫したりしてしまう。

(C)2025「フロントライン」製作委員会
本作の企画・脚本・プロデュースを務めた増本淳が、「劇場版コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命」など医療ものを多く手がけてきたことと、やはり増本が2011年の福島第一原子力発電所事故を題材に企画し脚本も書いたNetflix配信ドラマ「THE DAYS」で製作を担ったワーナー・ブラザース映画と信頼関係を築いたことが、この短期間で劇映画化が実現した要因と考えられる(ワーナーは今作で配給を担う)。
増本は半年をかけ、DP号クラスター発生とその対応の当事者である医療従事者、厚労省官僚、乗客乗員らに取材して脚本に着手。監督にはドキュメンタリーと劇映画の両方で実績のある関根光才を起用し、複数の実在の人物の要素を1人のキャラクターに集約するなど、協力して脚本を練り上げていった。映画では、神奈川県下の病院に勤務する結城(小栗旬)をDMAT対策本部のリーダーと位置づけ、厚労省官僚の立松(松坂桃李)、DP号に乗り込んだ医師ら(窪塚洋介、池松壮亮)が協力し、ときにぶつかりながらもそれぞれの持ち場で奮闘する姿を描いていく。
ほかにも、森七菜が演じる乗員や美村里江が演じる乗客ら多くの視点から並行して描くことで、まだ治療薬もワクチンも存在しない未知のウイルスへの感染が爆発的に増えていく状況に直面したときの不安や恐怖、そうした前例のない苦境を前に希望を失わず勇気を振り絞って難ミッションを遂行する医療従事者と乗員らの尽力を、観客に疑似体験させることに成功している。増本プロデューサーの狙い通り、エンターテインメントと社会性のバランスもいい。
ただし、実話の映画化であれドキュメンタリーであれ、一定の時間内に内容をまとめる必要上、関わったすべての人々の要素を盛り込むことは不可能で、主題にそぐわない、ノイズになりかねない要素が除外されることにも留意すべきだろう。ノンフィクション本「世界を敵に回しても、命のために闘う -ダイヤモンド・プリンセス号の真実-」(瀧野隆浩著)の中で、本作の主人公のモデルになった医師がDP号の船底で目にした東南アジア系乗員の状況を「現代の『蟹工船』」と表現したという部分が印象的で、巨大なクルーズ船が格差社会の縮図になっている点では2023年日本公開作「逆転のトライアングル」を思い出した。
だが「フロントライン」では、フィリピン人女性の乗員が健気に働く姿や、発症して寝込んだ外国人乗員が苦しむ様子が短めに描かれるのみで、感染予防策や発症後の対応にも格差があったことはほのめかす程度。そもそもDP号の所有は英国企業、運航は米国企業だが、これらの企業の責任も言及されない。感動的なストーリーが優先され、批判的な主張は抑えられたか。
とはいえ、エンターテインメントをきっかけに観客が社会の問題に関心を持ち、より深く考えるようになれば、それも作り手の狙い通りだろう。私自身も先述の本に加え、愛知県に位置する藤田医科大学の関連施設がDP号乗客を受け入れた経緯を詳述した「最後の砦となれ -新型コロナから災害医療へ-」(大岩ゆり著)を読んだり、配信で「ラスト・クルーズ」と「COVID-19 2つの大国の過ち」のドキュメンタリー2本を観たりして、DP号で起きたことや新型コロナ初期の対応について以前は報道やネットの偏った情報で知ったつもりになっていたことを痛感した。
たとえば「ラスト・クルーズ」では、東南アジア系乗員の証言により彼らの労働環境などがより詳しくわかる(一方で、日本人の乗客乗員のコメントが一切ないなど別の偏りも認められるが)。ともあれ、将来また訪れるであろう未知の災いに備えるためにも、「フロントライン」で描かれる最前線に没入し、自分ならどう感じ、どう行動するだろうかと考えることは、きっと意味があるはずだ。
(高森郁哉)